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生まれた私と死ぬ私は本当に同じ「私」なのか

自意識は、物心ついてから死ぬまで一貫して同じ「私」であり続けるものだろうか。

そう疑問を抱くのは、人間の脳には本来は一貫しない事実にまで無理やり一貫性を見出すような強いバイアスがあるからだ。もし「一貫性を感じる脳を持っているから、自分は一貫しているのだ」と思うだけなら、それは客観的な「一貫性」ではなく、単にそう「感じている」だけの可能性はないだろうか。

例えば、私は身体的性が男性で、性自認も男性だ。しかし、もし今この瞬間に性自認が女性に変わり、いわゆるトランスジェンダーになったとする。するとその5分後には、「そういえば、以前から私は自分の身体的性に違和感があったのだ」などと、過去を書き換えて感じてしまうのではないだろうか。そのとき、私は果たして一貫して違和感を持っていたのか、いなかったのか。どちらが真実なのか。

もっと言えば、「一貫性を感じるような脳を持っているから、一貫性を感じる」というのはトートロジー(同語反復)である。この「一貫性」という言葉を他のフレーズに置き換えても、論理は成立してしまう。

翻って考えれば、各々が感じている「一貫性」の内容が実は互いに一致していなかったとしても、私たちはその不一致に気づくことができない。これは、クオリアを共有できないのと同種の問題と言える。

そうすると、私の自意識が一貫しているかどうかを客観的に測ることは不可能だということになる。私が「一貫している」あるいは「一貫していない」と口にしたところで、その「一貫性」がどのような感覚に基づいているのかは、誰にも検証できないのだ。

客観的に測れず、主観的には強いバイアスがかかる「一貫性」という概念。果たして私の自意識は、本当に物心ついてから死ぬまで、同一の「私」であり続けているのだろうか。

生まれたときの私と、死ぬときの私が、実は全くの別人であったとしても。自分自身を含め、世界中の誰もその事実に気づけないのではないか。